春になり、早朝の日差しもずいぶん温かくなった。朝の登校時間にも、鳥の鳴き声が聞こえるようになってきた。
見上げると木の枝にとまった鳩や雀たちがこちらを見ている。その瞳には、同じ学校に通う学生たち、これから毎日見る光景がいま映っていたのだろう。
ただ、その時間に俺の姿はなかった。
「はあっ、はあっ、息が……」
つい先ほどまでは大勢の少年少女たちが木陰の中、通学路を真新しい制服をまとい歩いていたことだろう。
けれど今の俺は懸命に自転車のペダルを回している。無論、安全には気を付けてだが。
新しい学校の入学式からちょうど一週間ほどが過ぎた。まだ慣れたとはいえないが、これから数年間通う、新たな学校生活が少しづつイメージはでき始めている。
通学距離が伸びた不満足は別として、これから学校生活は否応なしに毎日やって来るわけだ。
*
県立仰尊中学校。そう書かれた校門をくぐる大勢の生徒達。駅の近くに建てられた学校ではあるが、学校の周りは住宅街の中ではあるが、比較的緑が多く過ごしやすい。学生の勉学も取り組みやすい環境ではあると思う。
「思うけどさっ……はっ」
自転車を三十分ほど必死になって回して、息も上がりきったなか、ようやく新しいわが母校が見えてきた。
通学路の学生の姿も既に少なくなっている。時刻は午前八時十五分に差し掛かっていた。
「はあっ……なんとか間に合ったか」
息を切らしながら俺は自分の左手首を眺めて呟く。年季の入ったそれは、年齢不相応なクラシカルなものだ。
校門横の石塀の上で小猫が気持ちよさそうに丸くなっている。銀色の毛並みは小綺麗で、どこかの飼い猫が逃げ出したのだろうか。ただ、あまり気に留めている時間はない。
校内に入り自転車を押して通学路を進んでいくと、既に登下校のピークは過ぎているので生徒の姿は疎らだった。
自転車を押しながら視線を脇にやると近くの花壇のそばには、一人の女子生徒が日焼けした肌に汗をかきながら水を撒いていた。
その懸命な姿を見ると、花壇の手入れの為に汗を流す女子と、理由は察してほしいが、朝早くから自転車を懸命にこいで流した俺の汗との違いに、いささかの小恥ずかしさを覚える。
気付くと自分でも無意識に引いていた自転車を花壇の端に止めていた。
「それ片付けとくよ。もうそろそろホームルームの時間だろ」
ちょうど水やりを終えた彼女が引き上げようとしていた彼女は、俺の声に気づくときょとんとした顔をしていた。
「……ありがとう」
少し戸惑った様な仕草をみせたが、小さく感謝の言葉を返してくれた。
手渡されたじょうろを自転車の籠に入れ、時間を確認する。始業開始まで残り三分もなかった。
お人好しな行動に「何をやっているんだろうな」と内心呟いていたが、時間的余裕もなく急いで自転車を駐輪場まで押していった。
*
学校に始業のタイムが鳴る一分前、1―Cと書かれたルームプレートをきりぎり潜り抜け、自身のクラスに入っていった。
窓際の机に目をやると見慣れた机、と言っても他と大して変わらないそこにカバンを置く。
「小綬、お前相変わらずだな」
前の席に据わっていた俺より少し背の高い男が、半場軽口だが、あきれた口調で声を掛けてきた。
声を掛けてきたのは小学生の時から付き合いのある米登(まいど)という男だった。自分より長身でがっちりとした体格は若干羨ましくもあるが、俺もいずれ追いつくだろう。成長期はこれからだ。
「……遅刻はしてないから問題はないだろ」
声を掛けてきた米登に突っぱねるような口調で返答する。
「貴重な朝の時間を有意義に活用しただけさ」
俺の言葉を聞いた米登は苦笑い、と言わなくてもすぐ分かる表情を浮かべていた。
「まあ遅刻にならなければいいけどさ。お前が目をつけられたら俺まで巻き添えを食らうかもしれないだろ」
「……そうなったらすまないけどな」
そう言われると俺も返す言葉はない。恐らくこのクラスでは一番仲が良いから、先生にも目を付けられる可能性は高いだろう。
ではなぜ余裕をもって登校しないのか。その理由は自分でも重々分かっている。
この世に生を受けてから今まで、一度たりとも早起きは得意ではなかったし、それに輪をかけて夜更かしをしてしまう性分だった。
この行動が自分で自制できれば良いのだろうが、今まで早起きという目標は、ラジオ体操などで半強制的に起こされる以外は滅多にない。まあ、俺の他にも、こんな性分のやつはごまんといるだろう。
「もう少し早く起きれば、余裕をもって登校できるだろうに」
「そうだけどさ」
「俺なんか三十分前には教室に来てるぞ」
米登は大きい体に見合わず几帳面な性格であり、「お前も見習うべきだ」とよく言ってくるが、人はそんなに容易く変わるものでもないと教えてやりたい。
「それに、俺より遅い奴が一人いるじゃないか」
俺はそういって後ろの席を見る。その生徒はまだ来ていないようだ。
「まあ百代はさ……」
それまで順調に俺を言い攻め立てた米登が口をまごつかせる。我ながら都合の良い、言い訳の要素が近くにあったもんだ。
米登の追及を逃れ「よかった、よかった」と安心していたところ、ちょうどHRのチャイムが鳴った。
生徒たちがそろそろと席に戻っていく。ほぼ全員が席に着いた際、ちょうど担任の八丸二郎(はちまる じろう)教師がクラスに入ってきた。
まだ五十過ぎではあると聞いていたが、白髪とその細身の体から老紳士のような風格がある。八丸教師に気付いた米登は、渋々前に向き直った。
「……相変わらずだな」
先生が教壇についたと同時に俺は思わず呟いていた。耳にはクラス後方の扉が開く音が聞こえた。
視線を聞こえた方向に向けると、ついこの間面識を持ったばかりの女子がこちらに歩いてくる。たしか、クラス発表翌日、同じクラスの生徒の囲まれていた際に「なんで、お団子食べてたの? 和菓子屋さんなの?」とか聞かれ「つい最近初めて食べたら、美味しかったの」とか、クラスの女子たちに質問攻めに答えていた姿が脳裏に浮かぶ。
「……もう、何も起きないじゃない」
なにやらぶつぶつ言っているが、何故だか耳馴染みのある声だが、どうせ俺には理解できないことを言いているだろうから、聞き流そう。この一週間で俺もだいぶ学習したからな。
そいつが俺の後ろの席に着くなり、不機嫌な声色を隠そうともせず声を掛けてきた。
「ねえ、まだ何か面白いこと起きないの?」
「……さあな、学校生活は始まったばかりなんだから、これからあるんじゃないか?」
机の上を片付けながらそっけない返事を返す。
「……そうね」
うしろから大きなため息が聞こえてきた。……わざと聞こえるようにやっているだろう。左の窓を見ると反射した百代の顔が同じように窓の外に向いていた。
*
ホームルームが終わり、時間割を確認すると今日の最初の授業は体育だった。男女別に体操着に着替えて運動場に出ると、体育教師がタイムウォッチを持って、含み笑いを浮かべながら待ち構えていた。
その表情から何やら嫌な予感がする。そして俺の予感はよく当たる。
クラスメイト全員が運動場に集まったことをかくにんした体育教師は、皆の顔を眺めた後、再度不敵な笑みを浮かべた。
*
「はっ……はあ」
体を動かすことは特段嫌いでもないのだが、クラスメートたちと球技等で楽しく「きゃっきゃ」「わいわい」遊びの延長のような授業を期待していた。
「はあっ……まだか」
けれど実際は自分の希望通りにはいかないもので、なぜだか汗を大量に流しながら学校の外周を走らされていた。
「あと三周もあるのかよ……」
この学校の校門を抜けると、俺は滝のように流れる汗を体操着の裾で拭いながら愚痴をこぼしていた。
まだまだ入学したばかりのぴかぴかの新入生。新しい学校生活には大いに希望を抱いていたのに、なんで初っ端から学校の外周を十周もランニングしなければならないのか。
*
スタート地点にいる体育教師が腕を組みながら、満足そうな表情を浮かべ息を切らしながら走る生徒たちに声を掛けている。
体育教師曰く、何事にも体力が基本であり、これから長い学校生活を過ごすためにはランニングが一番だと力説していた。まあ否定はしないが、ただ走るだけという行為は、ダイエットや陸上部でレギュラーを取りたい、等の目的がなければ単なる苦行でしかない。
しかも学校の外周を十周だ。汗で体操着が重く感じる。横手に流れる涼しい川の流れる音だけが憂鬱な気分を救ってくれる。
「ペースが落ちてるぞ。どうした?」
ふと後ろから肩を叩かれ振り返ると、米登が額に汗を浮かべながら、顔に自慢げな笑みを浮かべていた。
「もう周回遅れだぞ」
並走する米登の嫌味を右から左に聞き流しながら、学校の中へと戻っていく。まあ、米登は昔からスポーツを続けており、体力に自信があるのは分かっている。うらやましいという感情は特に持ってはいないが、こう差を見せられると若干悔しくもある。
「俺に合わせなくてもいいからさっさと行けよ」
「お前が辛そうにしているから応援してるんじゃないか」
あーそうかい。
心の中で米登に返事を返していると、俺の後ろから軽い音で、「タタタ」という早くリズミカルな足音が聞こえてきた。
「うわっ」
自分の左側を誰かが駆け抜けていったことに米登が驚きの声を上げる。いい気味だ。
米登が驚いた方向に目を向けると、長いポニーテールをたなびかせながら一人の少女が走り抜けていた。
まるで慣性を感じさせないような——走るというよりは低空を飛ぶ、獲物を狙う燕のような後ろ姿だった。
あっという間にゴール地点に到達すると足を止め、涼しげな表情で元の整列していた位置まで歩いて行った。汗一つ流していないじゃないか。
体育の担当教師が走って駆け寄り何やら熱く力説している。
「百代のやつ、……とんでもねーな」
並走する米登が愕然とした表情を浮かべていた。まあ俺も同じような表情を浮かべていたのだろうが。
俺の他の生徒達と比べて遅い方ではないし、何より米登はクラスの男子の中でも一番二番を争うほど運動神経が良い。
現に俺を周回遅れにされたわけだが、さらに百代は米登を周回遅れにした。横で米登が肩を震わせている。
「……俺だってな、こんなもんじゃないんだ!」
隣を走っていた米登は露骨な強がりを叫びつつ、鼻息荒く俺の前を走っていった。
まあ俺は自分のペースで走らせてもらうけどな。マイペースが一番だ。
「……」
百代の横を通ったときに、こっちをじっと見ているような気がするが気のせい……。
「じゃないな」
軽く顎を上げ空に鼻をつき出すような自信ありげな表情を浮かべてこちらを見ている。
腹立たしいな。仕方ない、少しだけ気合を入れるか。
コメント