「お兄ちゃんおきて、おきてー!」
「……ん……ん?」
甲高い大きな声が聞こえた気がして、瞼を開こうとしたが思ったように体が動かないのがもどかしい。
お腹のあたりにも少し息苦しさを感じるようになり——ようやく自分が今まで就寝していたことを思い出した。
それが思い出せれば、声とお腹に感じる重みの理由はなんとなく想像できた。霞む視界から目を凝らすとベッドで寝ていた自分の上に小柄な少女がまたがっていた。
お腹の上でスーパーボールのように懸命に体を跳ねさせているので、体重は重くなくても、息苦しさから十分で眠気が急速に薄れていく。
寝ぼけ眼がはっきりしだすと、少女の顔が毎日顔を合わせ、飽き飽きした自分の妹だと認識できた。
「起きた?」
「……起きた」
頭上の目覚まし時計に目をやるとデジタルな液晶画面にAM七時三十分(月曜日)と表示されていた。
もうこんな時間なのかと、少しばかり驚きながら体を起こした。ベッドに腰掛けると、妹に後ろから首に手を回され、ついでに腰に両足を巻き付かせてきた。
「……何をしてるんだ?」
「起こしてあげたから下まで連れてって」
笑顔だけは天使のように屈託なくそう言うものだから、否定の言葉を述べる気力も失せ、妹が後ろにぶらさがったまま階段を降りていく。
リビングに入ると妹が俺の背中から飛び離れた。食卓を見ると俺以外の家族は既に朝食を終えているようだった。
*
口を素早くもぐもぐと動かしながら朝食を食べ終えたのだが、既に時間的猶予はあまりなく、急いで洗面台に向かい、半目を開けた自分の顔と今日初めて対面した。
冷たい水道水で顔を洗うと瞬時に意識がはっきりとする。
「……いつも思い出せないんだよな」
鏡に映った自分を見ながら、ふと呟いた。
また、何か夢見ていた気がする。妙に現実感の強い夢を。
頭の片隅に引っ掛かりを覚えながらも、既に冴えた頭の中では、先程の夢を思い出すことは出来なかった。
ましてや悠長な時間はなく、手に持った歯ブラシに練り粉を付けていき、素早く手を動かす。泡立った口の中をうがいですっきりさせ、口の中にすうすうとした満足感を得た。
身だしなみを整えた俺は、まだ若干あるベッドの中に潜り込みたい気持ちを抑えて、学校指定の鞄を手に取った。
いまはまだ汚れたり擦れたりはしていない。
つい昨日新しい学校生活が始まったばかりだ。
それに今日は重要なイベントが待っている。
「出会いの季節っていうのは、何度来ても慣れないものだな」
自転車のサドルに尻を着けず、ペダルを懸命に回してみると、おそらく普段の半分程度の時間で目的の学校までついた。
シャツが十分に汗を吸い、俺は息をゼイゼイ吐きながら、校内にある駐輪場へと無事到着した。
もう既に大量の自転車が停められていたが、何とか空きスペースを見つけた。籠に 入れていた通学鞄を手に取ると体育館の横を通り過ぎ校庭に出る。
校庭の外周には桜の木が植えられており、根元には少量の桜の花が落ちていた。ここ数日強い風が吹いていた覚えはないが、毎年あっという間に散ってしまう。
「もっと見ていたいけどな」
桜の儚さを愁いでいる、そんな俺自身に若干の自己陶酔を感じていたわけだが、校庭の一か所に大勢の生徒が屯する光景が目に入り、本来の目的を思い出した。
学生服を身にまとって談笑する彼らの声は、その人数の多さも相まって遠くまで聞こえるほどの騒めきとなっている。
「しまった。出遅れた」
慌てて彼ら彼女たちが屯する場所へと急いで向かっていった。
*
同学年の紺や白の学生服をまとった生徒達。間から、コンクリート造りの高さ二メートルほどの万年塀に、五枚ほどの四方一メートルはあろうかという大きめの紙が張り出されていた。彼ら彼女たちはこの張り出された紙を、そこに書かれた何かを見て哀歓を共にしているようだ。
かく言う俺自身もその紙を、そこに書かれた内容を早く確かめたかった訳だ。
「すまん。ちょっと開けてくれ」
「通る……痛っ、ちょっと……」
全然動く気配のない人だかりを、縫うようにして抜けて行くつもりだったが、顔に肘が当たるわ、生徒たちが尻ではじき出そうとしてくるわ、案の定全身もみくちゃにされた。
ようやくその張り紙の内容が確認できる場所まで進むことが出来た——若干胸が高鳴ってきた。
「俺の強運……頼むぞ」
祈りながら、まず一番左側に張り出された紙を確認する。1―Aと書かれたその下に、あいうえお順に生徒の名前が続いていた。俗にいうクラス名簿だ。
「俺の名前は……」
1―A、1―B、1―Cと、見知らぬまたは知っている名前を順に追って行き、漸くドキドキしつつ眺めて、ようやく自分の名前を見つけた。
小綬餅太郎(こひも もちたろう)。俺の名前だ。小難しい名前だということはご容赦願いたい。
自分の名前を見つけて少し安心したが、まだ不安が残る。
張り出されている名簿に、見覚えのある——できれば気心の知れた知り合いが、同じクラスにいること願って目を運ぶ。
頼むぞ。
*
心の中で呟きながら、張り出されたクラス名簿を憂慮しながら目を通していく。すると幾人か、前の学校時代で見覚えのある名前を発見できた。
「まあ、上等だろう」
制服の襟元を開きながら冷や汗を外に逃がす。
見上げた空を見ると快晴の中、雲が漂っている。これから新しい生活が始まるけれど、こんなふうに穏やかな生活を送りたいものだな。
「小綬って、んぐんぐ、あなた?」
若干の放心状態で雲を眺めていたところ、横から可愛いらしい声が聞こえた。
声を掛けられた顔をその方向に向けると、一人の少女が俺を繁々と値踏みでもするようにみていた。
目を細めて俺を舐め回すように視線を上下させ、時折「うーん」と口を動かしつつ何かぶつぶつ呟いている。
顔を上下に動かすと、あわせて頭の上で結んでいるリボンがウサギのように二つ、ぴょこぴょこ前後している。
いきなり声を掛けてきて、「あんた」呼ばわりされることは、いつもの俺なら嫌な気分になること——間違いなし——だが今はそうでもなかった。
他に気を取られることがあったからだ。
なんでこいつ、ここで団子を食べているんだ。
俺の視線に気が付いたのか手に持った、串つきの団子を俺の前に差し出した。
食いかけだ。
「あんたも、食べたいの?」
「……いや、遠慮しておこう」
朝食にしては特殊な代物だし——何より周りの視線を気にせず、今それを食べる度胸は俺にはない。
「……悪いんだけどさ、どこかであったことあるか?」
新手のボケか何か知らないが、とりあえず指摘せずにおこう、まずは面識があったのか確認がしたい。
「……、今の私は初めて会ったのかしら」
なんかもう会話が成立していない気がする。瞬時きょとんとした表情を浮かべる彼 女の表情をみて、俺も内心呆れていた。
ただ一つ気付いたことはある。
その行動に意識を取られて気付かなかったが、その女子の容姿は、俺が見た中で一、二を争うほどの美少女だった。
「あ、そうか、ごめん。まだ自己紹介してなかったわね。私はツツキっていうの、あなたに会うためにここに来たのよ」
ツツキと名乗る女子が、声高にそう告げた。ただでさえ注目を集める格好なのにさらに周りの視線が痛いことになる。
「……ちょっとこっちに来てくれ」
この場所から一刻も早く離れたい。ほかの生徒の視線が幾重にも刺さってくる。
「ちょっと、なにするのよ」
ツツキと名乗る女子の右手を掴むと、俺の気持ちを代弁するかのように、早歩きで体育館裏の自転車置き場に向かった。
*
「……さてと」
体育館裏の自転車置き場に戻り、とりあえず同学年の痛々しい視線から逃れることができ、ひと安心する。
「まずは手を放してくれない?」
ツツキが顔を背けたまま声を掛けてきて、無意識のうちに掴んでいた手を慌てて離した。
手を離すとこちらに振り返り、じっとこちらを見てくる。ツツキと名乗る女子の視線を紛らわすように、とりあえず複数ある疑問の一つを問いかけてみた。
「俺に会いに来たってどういう意味なんだ?」
「それに……ツツキだったか、どうして俺のことを知っているんだ?」
矢継ぎ早に質問を投げかける俺に対して、「ふふ」と何やら怪しげな笑みを浮かべると、右手を空に向かってあげると人差し指をつき上げた。
「私はあそこから来たの」
そういう彼女の指さす先、先程も見た青く晴れた空を眺めた。うっすらと月が白く見える以外何もない。
「どういうことだ?」
「ここでいう月、だったかしら。私はそこから来たの。どう、思い出した?」
驚いたぞ、その言動に——ん? 思い出した? 一瞬「何か」引っかかった気がした。
呆気にとられた俺の表情を、何やら不服そうな表情を浮かべたまま、気持ちを切り替えたのか、言葉を続けてきた。
「私はここで今までにない、面白い体験をしに来たの。そしてあなたにはそれを見つける力があるのよ」
ぐっと俺の顔を覗き込むように瞳を近づけてきたツツキ。その奇天烈な言動も相まって俺は思わずのけ反る。
「何をいっているか、よく分からないんだが」
「まあいいわ、いずれあなたにもわかることだから」
俺は呆気にとられていたが、ツツキは満ち足りた表情を浮かべている。
「今日は顔を見たかっただけだから、これから同じクラスよね。よろしく頼むわよ」
そう言って背中を向けると先ほど来た道を走っていった。
「……そういえば名前があったな」
先程自身のクラス名簿を見ていた時、見慣れない特徴的な名前が記載されているのを思い出した。
そして走り去っていく彼女のうしろ姿を、頭の上でリボンがひょこひょこ動くのを見ながら俺は呟いていた。
「あいつもクラスメイトになるのか」
彼女のうしろ姿を見ながら、ふと脳裏に何かが浮かんだ気がした。なんだろう、頭のどこかでは、はっきりと記憶している感覚があるのだが。
いざそれを引き出そうとすると、靄がかかったようにつかみどころを見つけられない。
「深く考えても仕方がないか」
これから新しい学校生活が始まるんだ。細かいことで悩んでいてもしょうがない。今はそう言い聞かせておこう。
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