四月に入ったばかりのとある夜中。
気温が徐々に暖かくなり始め、最近ではようやく窓も開けられる程になった。先月までは布団の中で芋虫のように丸まっていた。いまは部屋に心地よい風と共に、外から聞こえてくる昆虫たちの鳴き声も耳に届く。
鈴虫などの音色は、布団に潜り込んでいる俺にとっては決して煩わしいものではなく、涼やかな耳当たりの良いものだ。
ただ、この時期になると俺の部屋にも招かれざる者がやってくる。俺の部屋までどうやって入り込んだのかはいつも分からない。ジェームスボンドも顔負けの秘密行動によって俺の命の源を毎年奪いに来る。
「……そこか!」
俺はそいつが出す耳障りな音を頼りに、素早く身を翻して、侵入者をとらえるべく両手を振りかざす。
「バチンッ」と、強い乾いた音が部屋に広がる。
「……やられた」
目の前で合わせた両手をゆっくりと開いてみると、俺の獲物の姿はそこにはなかった。かわりに鈍い掻痒感と右膝の上部が小さく赤く膨らんでいた。
「……」
部屋のどこからか聞こえる、耳障りな音が徐々に大きく聞こえてくると、俺の意識は完全に目覚めてしまっていた。
枕元に置いてある目覚まし時計の目をやるとアナログな短い針が二時の少し前を指していた。この時間に目覚めてしまう負担は予想以上に大きく、今の精神状態を表すようによろよろと立ち上がる。ベッド近くのカーテンを開けると、外は当然のように暗闇だった。
ようやく苦手な冬が通り過ぎたと思ったら、温かい陽気に導かれるように忌々しいそれが孵化して俺を襲ってくるわけだ。
「……面倒くさいことだ」
暗闇の中でそいつと格闘するなんて、無謀な勝負をさっさと諦め、自分の部屋を出る。
まだ家族が寝静まっている時間帯だが、一階のリビングにある目当てのものを探しに行くため、極力物音を立てず階段を降りていった。
扉を開けてリビングに入ると、部屋の隅に置いてある豚を象った陶器の入れ物を見つけて、輝く豚の鼻とともに若干の希望を抱く。市販のよく見る螺旋巻きの線香とその近くにあるライターを手に取り「最高の武器を手に入れたぞ」なんて小さく呟いて、もう一度自身の部屋に戻っていく。
*
箱を開けると渦巻きが残り三つほど入っていた。剽軽な豚の形を模した陶器の器にセットすると、箱の側面を軽くこすりマッチの火を灯す。
ほどなくして豚の鼻からもくもくと煙が上がり出す。これで部屋から煩わしい虫がいなくなってくれる——どうかは分からないが精神衛生上はだいぶ楽にはなるだろう。お願いだから朝まで俺の眠りを妨げないでくれ。そんなことを頭の片隅で考えながら、もう一度布団をかぶり仰向けに目を瞑った。
*
「……そういえば、さっき何か夢を見ていた気がするな」
……
…………
——頭の中に得体のしれない「何か」が浮かび上がったような気がする。なんだったのだろう。様々な色に変わりながら漂う、光のようであり波のような現象。
「またか」
昔から度々、身に起こる感覚だ。
既視感なのか錯覚なのか、何と言っていいかは自分でも分からないが、今のような感覚を覚えたとき、夢の中で不思議な出来事を体験してきた。
「良い夢ではないだろうな」
今までも数回経験した出来事なので、特段の驚きもなく、ウトウトと睡魔に飲み込まれていった。
…………
……
——ふと気づくと、息を切らしながら全力疾走をしている。
何故走っているのかは思い出せないが、誰かに追われているような気がする。追われる理由は分からない。けれど、それから逃げていることは確かだ。
まっしぐらに走っている。俺の視界に見える景色は、見覚えのあるような林道だった。そこを抜けると、今度は洞窟の中でつるつるする岩肌を滑らないようにバランスをとって走ったり、気が付くと水の中を見たこともない深海魚たちと泳いでいたりと、地球をトライアスロンをしているようだった。
周りの風景は、いま誰かに追われている状況ではありながら——郷愁を感じるような——神秘的な美しさが心にやすらぎを与えてくれるようだ。
だが安堵して足を緩めようものなら、徐々に後ろからの圧迫感は強くなる。
どんなに走っても、結局は距離が縮んでいく。追いつかれたらどうなるかは想像できない。
この夢はいつも追いつかれる寸前で、冷や汗を伴って目が覚める。もう振り切ることは無理だと、走りながらも薄々自覚している。
毎回の事だから、半ば結果は見えている。これが海岸で恋人にでも追いかけられているシチュエーションなら万人が喜ぶのだろうけど。
ほら、徐々に鉛のように体が重くなってきた。走ってきた方向を振り返ると、全身が棒のように動かなくなった。向こうから誰かがゆっくりと歩いてくるが、靄がかかってよく見えない。
このあたりのようだ。そしてこの夢も、今の纏まらない思考回路のように、あやふやな記憶になって、ただ何か、はっきりとしない夢をみていたんだろうと思うだけになる。
…………これからも続くのだろうか。
……それに夢の最後に、誰か話しかけてくるような気がするけど、いつも思い出せない。気になって眠れなくなりそうだ——冗談じゃないぞ。
…………
……
——あなたは世界を紡ぐことが出来る——
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